第93話:孤影(前編)
荒牧が玄関先に腰掛けてスニーカーの靴紐を結ぶ背中を、乾家の女達が見守った。母親が「またいらっしゃいね」と微笑み、荒牧が優等生らしくそつなく答えると、何故か長女は爆笑し、次女が抗議した。
冬の夜は玄関の内側に入れられているラッキーが、荒牧の足元で鼻を鳴らす。ふさふさの尻尾を揺らして眼鏡の少年を見つめ、遊んで欲しそうだ。荒牧が顎を撫でてやると喉の奥で鳴いた。
「お邪魔しました」
| 固定リンク
荒牧が玄関先に腰掛けてスニーカーの靴紐を結ぶ背中を、乾家の女達が見守った。母親が「またいらっしゃいね」と微笑み、荒牧が優等生らしくそつなく答えると、何故か長女は爆笑し、次女が抗議した。
冬の夜は玄関の内側に入れられているラッキーが、荒牧の足元で鼻を鳴らす。ふさふさの尻尾を揺らして眼鏡の少年を見つめ、遊んで欲しそうだ。荒牧が顎を撫でてやると喉の奥で鳴いた。
「お邪魔しました」
| 固定リンク
「よし!「思います」は余計だが、許す!全部許す!」
桂は力任せに荒牧の肩を叩き、塞き止めていた喜びを放出する。
意固地で一筋縄ではいくまいと思っていた少年は、拍子抜けする程いとも簡単に陥落した。
| 固定リンク
こっそりと爪を研ぐ桂に気付かずに、荒牧は続けた。
「最近は彼女よりもずっとカンちゃんの方が一緒にいるし…」
「…」
「幼馴染みの奴も同じクラスですけど、そいつより俺の色んな事、理解してくれてる…、と思うんですけど」
桂は心中で、
(おお、これは…)
と、感嘆し、口元を隠して笑いを堪えた。
| 固定リンク
桂が聞き返して、荒牧もようやく視線を合わせた。
「はい。梓さんから聞いてないですか?「もう二人きりで会うのやめよう」って」
「えー!聞いてない!いつ?」
「正月に。俺から「やっぱりこんなの良くないだろ」って」
「あずは?何て?」
「…ちゃんとわかってくれて…、この前は久々に喋ったって感じで…」
荒牧は口ごもる。
| 固定リンク
桂は台所に立ち、丁寧に紅茶を淹れる。
「本当に来たわね。逃げると思ってたけど」
肩肘を張ったままソファに座る荒牧は、
「はい」
と、桂には一瞥をくれて、何やら窓の外を眺めていた。
「どう?やり捨てた女の親に合う気分は。緊張した?」
どう料理してくれよう。桂は下ごしらえとばかりに荒牧へ次々と嫌味を投げた。
「いえ…」
荒牧は桂に向き直ると、
「でも、お姉さんが帰って来てから、急にバクバクして…」
胸の辺りをさすりながら口の端で笑った。
| 固定リンク
かさついてひび割れた皮膚の感触だった。乾は咄嗟に荒牧から身体を離す。
久し振りに数センチの距離で見る荒牧の顔は、以前よりもどこかしら穏やかで、しかし猛る欲望を気取られまいと息を潜める野獣のようにも映る。荒牧は静かな瞳で乾を見つめ、舌なめずりをして唇を潤した。
リモコンを握り締めたまま荒牧の握力に支配され、乾はやっとの事で囁いた。
「呪文…」
「え?」
「…効いてないじゃん、呪文」
| 固定リンク
土曜の昼下がり、予想に反して飼い犬のラッキーが吠えなかったので、ドアのチャイムが鳴るまで乾はその訪問の気配に気付かなかった。
慌てて駆け出し、ドアを開ける。冷たい空気が流れ込む。門扉の中にカーキ色のモッズコートをまとった荒牧が立っていた。手土産だろうか、紙袋をぶら下げている。
「こんちは」
白い息をフードのファーに絡ませながら荒牧が笑うと、尻尾を振ったラッキーが一声だけ吠えた。
| 固定リンク
例え話だとしても、荒牧は伊勢を侮辱するような暴言を放った。「念の為、優しくしといた」「センズリ代わりに」…、思い出しても吐き気を催す。言い草の酷さに乾は怒りを覚えた。あの時ほど、大切にしていた己が恋心を疑った事はなかった。
| 固定リンク
一年生の伊勢が、二年生の特進クラスの教室のドアにやって来たのは何ヶ月振りだろうか。
「本当は明日、お渡ししたかったんですけど…」
蚊の鳴くような声で聞き取り辛い。金曜日の昼休みの廊下に呼び出された荒牧は、伊勢に耳を傾けて背中を丸める。伊勢は小箱の入った紙袋を荒牧にそっと手渡した。
「ああ、そっか…」
| 固定リンク
「うん、大丈夫…」
荒牧の落ち着き払った声に、乾は冷静を取り戻した。
「あ、あのっ…、今日はごめんね。邪魔しちゃって…」
「うん?いや、まあ、吃驚したけど。…気にしてるだろうと思って」
気遣うような荒牧の口振りに、乾の心臓が喉の奥まで這い上がって脈を打ち始める。
| 固定リンク
駐車場からの長い車列に姉妹は巻き込まれた。家路を急ぐ車が次々に増えて渋滞を起こし、じりじりと進まない。
車内には、エンジンの振動と乾が洟をすする音、なかなか暖まらない空調の音が響いていた。
| 固定リンク
荷物を押し付けて車に積めだの、今度は降りて来いだの、いきなり何なのだろう。乾はいつにない姉の桂の我が儘に、不審ながら従った。
「え…?」
振り返った険しい顔の姉の背後には、いつも教室で見慣れた姿があった。
| 固定リンク
名乗られるまで気付かなかったが、見知らぬ女はなるほどクラスメイトにとてもよく似ていた。肌の白さ、すらりとした四肢は同様に美しい。明るい色に染めた長い髪は丁寧に螺旋を描き、手入れの行き届いた爪には宝石をちりばめたような細工がなされていて、化粧も服装も目を引く華やかさだ。今はまだあどけなさの残るあの子も、何年か経って大人になればこんな感じなのかもしれない。
秋頃「姉に諭された」と乾が話していたっけ。荒牧は乾家の居間のソファの座り心地や、ランプシェードの透かし柄を思い出しながら、女の横顔を盗み見る。
なぎが何度もこちらを振り向きながら映画館のもぎりを通って行くのを眺めて、桂は荒牧に訊いた。
「彼女、幾つ?」
| 固定リンク
二月に入っても乾は見えない何かに囚われたまま、ただ日々を送った。仲間から取り残されないよう、頬を引きつらせながらおもねるのにも徐々に疲れ始めていた。それでも荒牧は相変わらずだ。このまま高校生活の残り一年を過ごすのだろうか。また世界は冷たい灰色に戻った。
ある日曜日、姉の桂が唐突に「買い物に付き合え」と、自転車で行ける距離のららぽーとへ車を走らせた。
| 固定リンク
今朝も姉に「だっさいマフラー」とからかわれたが、乾は意に介さず家を出た。持ち主本人から「あげる」と言われたのだ。身に着けようが、捨てようが、勝手なのだ。
ぐるぐると巻いて耳まで隠すと、切れそうに冷たい冬の風から荒牧のマフラーが守ってくれているような気がした。
三学期もこれまでと変わらない日々が続いた。
しかし、変化は確かに起こっていた。
| 固定リンク
家族の集う一階の居間から、二階へ向けて呼びかける声が響いた。
「あずちゃーん?お風呂、早く入ってちょうだい」
夕食後から部屋にこもっている次女の梓を気にして、母親は長女の桂(かつら)に言う。
「あずちゃんたら、寝ちゃったのかしら…。お姉ちゃん、見て来て」
「えー?」
おとそ気分に漂いながら呑気にソファに寝そべっていた桂は、気だるそうに生返事をする。「だらしがない」とこぼす父親の声を背に、階段をどたどたと駆け上がった。
| 固定リンク
乾の予感は最悪の形になって荒牧から放られた。
乾の手が震え出す。
年が明けるまで何の連絡もせず、いきなり「会いたい」だなんてメールを出したからだろうか。視聴覚室で密かにキスをした時だって、終業式の日だって、何ら悪い兆候はなかったはずだ…
長い沈黙の中、乾はひたすら思い当たる節を手繰っていた。
「考えたんだけど」
電話の向こうの荒牧の声に乾は我に返る。けれど相槌すら打つ事が出来ない。
| 固定リンク
| |
| あけましておめでとうございます。 今年もヨロシクね! 冬休み中にでも、また二人で会いたいです。 いつなら良い? |
年が明けた瞬間、待ち構えたように乾梓はメールを送信して来た。文体はあくまでも気負わず、軽い。
| 固定リンク
冷たい冬のガードレールが荒牧の身体を支える。
「どっちが先に言う?」
「んー…」
「…」
うつむく幼い恋人が何を言い出すやら、荒牧は沈黙に耐え切れず先手を打った。
「俺に先に言わせて」
「…うん」
| 固定リンク
神社の参道は、これから詣でる人々、帰る人々が屋台に引っかかりながら賑わっていた。なぎが宇佐美の甘酒を舐めてはしゃぐ声がする。
そのざわめきが遠くに感じる。独り歩きながら、荒牧は静寂の中にいる錯覚に陥っていた。
なぎとの口付けを宇佐美に語る中でこぼした言葉に自ら驚きながら、一方では再確認していた。恋人との初々しい出来事に率直に喜ぶその裏には、薄ら寒い罪悪感がある。
| 固定リンク
今年に限っては何だか気分が違った。
荒牧家と若村家が、宇佐美家で一堂に会した正月二日。荒牧聡吾は恋人の若村なぎの振り袖姿を、万感を込めて眺めた。なぎと弟の大輔が初詣に出かける際に晴れ着を身にまとうのは毎年恒例の事ではあった。
去年の春の事だ。
| 固定リンク