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第79話:日曜日

二月に入っても乾は見えない何かに囚われたまま、ただ日々を送った。仲間から取り残されないよう、頬を引きつらせながらおもねるのにも徐々に疲れ始めていた。それでも荒牧は相変わらずだ。このまま高校生活の残り一年を過ごすのだろうか。また世界は冷たい灰色に戻った。


ある日曜日、姉の桂が唐突に「買い物に付き合え」と、自転車で行ける距離のららぽーとへ車を走らせた。

姉の気紛れに付き合えば気も晴れるだろうか。乾はいささか気乗りしないまま助手席に乗った。
乾はいつしか、登校時以外の休日でも出かける時は荒牧から譲り受けたマフラーを身に着けるようになった。年相応の私服に合わせると、また一段と不似合いだった。
桂は今日ばかりはそのマフラーを揶揄もせず「欲しい物があるなら買ってあげる」と笑う。乾はその語気で、妹を気遣う姉の心根に気付いた。何かがあると、いつも言葉少なに自分を支えてくれる姉だった。

赤やピンクの華やかなハートのディスプレイがショッピングモール中に踊る。来週の土曜日はバレンタインデーだ。乾の頭にあの猫背がチラついて消えない。
姉妹はぶらぶらとショッピングモールの端から端までを練り歩き、桂は宣言の通りに乾に洋服やら雑貨やらを買い与えた。乾は姉の前では屈託なく笑う事が出来た。

桂が素通りしようとしたセレクトショップで乾の足が止まる。
乾はメンズの小物の棚のマフラーを手に取っては、入念に素材や手触りを確かめた。鮮やかな赤、空のような青…、色々と手に取って最後はネイビーブルー地のチェックの物を選んだ。
やっぱり落ち着いた色の方が似合いそうだよね、乾は微かに笑み、すぐに胸に痛みが走ってうつむいた。
乾はバレンタインデーを好機と、荒牧にマフラーをプレゼントする事を考えていた。寒そうに、いつもの猫背を更に丸めている荒牧を、後ろから見つめるのが忍びなかった。甘い甘いザッハトルテを作ろう、マフラーと一緒に渡そう、乾は頬を染めて計画を練る。
しかしこのまま無視され続けていたら、渡す事すら出来ないかもしれない。あの団地の冷たい鉄のドアのノブにかけて置いたら、週明けにはこのチェックのマフラーを巻いた荒牧に会えるだろうか。菓子の出来を褒めてくれるだろうか。乾は慕情に耽る。
店内を見て回る姉の目を盗んでプレゼント用のラッピングを頼み、他の店のショッパーに入れて隠した。


桂は、妹の熱心にマフラーを選ぶ薔薇色の頬に、買い物袋から覗くリボンに、密かに一瞥くれながらも特に何も言わずにいた。後生大事にしているマフラーにも今日は一言も触れないでいる。何の解決にもならなくても、休日の間に少し他の事を考えさせられるのならば、多少は甘やかすのも良いだろう。妹の沈んだ顔を、毎日のように見るのは辛いのだ。

満足に買い物を終えて、姉妹は屋上の駐車場へつながるエスカレーターへ向かった。お姉ちゃん、今日の晩ご飯は二人で作ろうよ、ママにお買い物は待っててって…、
そう言う乾の言葉を、桂は何かに気を取られている様子でよそ見をして聞き流したかと思うと、やにわに車の鍵とたくさんのショッパーを押し付けた。
「あず。コレ、車に積んでおいて」
桂はやけに神妙な顔をして妹に言い、登り切ると踵を返して今度は下りのエスカレーターに飛び乗った。
何か買い忘れた物でもあったのだろうか、やっぱりさっきのワンピ買うのかなあ、でもそんな怖い顔しなくても…、乾は首を傾げた。


桂はハイヒールを高らかに鳴らしてエスカレーターを駆け降り、シネマコンプレックスのフロアまで戻った。
先刻、見かけた眼鏡の横顔に見覚えがあったからだ。見覚えどころではない、絶対あいつだ、桂は確信を持って探し回った。
もうすぐ映画が始まるのか、人だかりが桂の邪魔をする。フロアを一周、更にもう一周しようとして、行列の中に少女の手を引く眼鏡の少年の姿を見つけた。
頭に血が上ると、どうにも突っ走ってしまう。桂は自覚しつつ、しかしその手はもう眼鏡の少年の腕をつかんでいた。
「ちょっと、あんた!」
怒声に少年は跳ね上がるように驚いて振り向き、桂を訝しげに見下ろした。
「…はい?」
自分を睨み付けて来る見知らぬ女が誰なのか思い出そうと、少年は眼鏡の奥で目蓋を細めて探っているようだ。連れの髪の長い少女が、少年のもう片方の腕にしがみ付いて、そっと身を隠した。

「…どちら様でしょう?」
作り物のような無表情、凍るような声は、人のようでいてそうでないような冷えた音色だった。少年は、近くで見ると以前に家の前の夜道で擦れ違った時よりも上背があるように思えた。
桂は一瞬たじろぐも、ひと呼吸して顎をつんと上げ、静かに言った。
「乾と申します」
「あ…」
少年は小さく声を上げて、眉に微細な表情を見せた。
桂はふつふつと沸いて出る怒りを抑えながら少年を見据える。
「って、言ったらわかるわよね?私が何を言いたいか」
「…はい」
桂は少女に、
「こちら、妹さん?」
にっこり笑いかけ、少年には、
「…じゃないわよね」
今にも噛み付きそうな形相で向き直った。二人は指を絡めるように手をつないでいた。
少年は腹を括ったらしく、溜め息混じりにうなずいた。
「はい」
「今、話出来ない?」
桂の誘いに、少年は映画のチケットを一枚だけ取り出し、「先に入ってて」と恋人の小さな背中を押した。




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