第52話:メサイア
空調の利いた図書館で昼食を取ろうとして「飲食禁止」と追い返された乾と関口は、寒風吹き荒ぶ中庭のベンチへ流れ着いた。
関口は苛立ちを隠さないまま、カレーパンを頬張る。乾は焼きそばパンを手にうつむいたまま、どうしても涙を止める事が出来ずにいた。
口の中の物を飲み込んで関口は静かに訊いた。
「…シャケの事?」
「…毎日、学校で会って、塾も一緒で、楽しくて…」
「…」
「でも「バイバイ」って言った瞬間からもう会いたくて…、話したくなって…」
「…」
「一緒にいてもいなくてもずっと考えてる…」
しゃくり上げながら乾は初めて恋を語った。誰かに聞いて貰えるとは思っていなくて、まるで箇条書きの台詞のようだった。
完全に思い上がっていた。
心まで手に入れたとは思っていない、そう自らに言い聞かせながらも、どこかで信じていた。恋人よりも先に身体を交わし合っているという既成事実を楯に、乾は自分が荒牧の特別な存在である事を証明したかったのだ。
しかし荒牧はあまりにも軽薄に、顔見知り程度の後輩と「大差ない」と言い放ったのだ。
しとどに涙を流す乾の横顔を眺めて関口は言う。
「…マジかー…。そんなにだとは思ってなかった…」
「…」
「何で?女いるじゃん」
「うん…」
「しかも入籍とか言ってるような」
「うん…」
「どこが良いんだよ、シャケの。全っ然わかんね」
「うん…」
「…」
「もうわかんないの…」
「…」
「何であんな人、好きになっちゃったのか…」
「はは!「あんな人」?」
「…」
「好きなのに何でそんな言い草?」
関口は思わず笑い出し、うつむいたままの乾をじっと見る。沈黙と北風が二人を撫でた。
「…カンちゃんはさ、もっと自分が何考えてるか言わないと」
「…」
「はっきり言葉にして。「好き」とかちゃんと言ったか?」
乾は首を横に振る。日々に流されて、未だ告白らしい告白はしていなかった。
「あいつ、絶対わかってねーべ」
「…」
「後藤も宇佐美も…、うちのクラスはほとんどカンちゃんの気持ちにはとっくに気付いてるのに」
乾は関口の言葉を呆然と聞きながら、荒牧との日々を思い返した。
優しげな笑顔、満員電車での抱擁、卵白を泡立てる不器用そうな手付き、汗ばむ首筋、溶けるような体温、尖った言葉、乱暴な腕、窓際の最前列の猫背…
気付けばいつの間にか、好きな仕種をいくつも列挙する事が出来た。限りがなくて、一層、涙が溢れた。
「いや、わかってるのにわかってないフリか?」
首を傾げながら独り言ちている関口に、乾は焼きそばパンを返して言う。
「…良いんだ。一緒にいられるなら」
「…」
「シャケの良いようにされたって別に構わないと思ってる」
側にいられるなら、どんな形でも構って貰えるなら、それで良い。悪魔の仕打ちにも勝る強い想いがある。乾は決意表明のように言った。
「…え?「良いようにされたって」って?どういう…」
乾は自分の言った言葉に、はっと息を飲んで関口を見た。関口は怪訝そうに眉をひそめている。
「…へへ、何か、泣いたら頭痛くなっちゃった」
とっさにごまかそうと、乾は立ち上がりスカートを手で払った。無理に笑った下瞼から涙がこぼれ落ちる。
「帰るね。みんなには適当言っといて」
「ごめんな、泣かすつもりなんかなかったんだよ、マジ」
関口も慌てて立ち上がった。
「ううん…。…関口、ありがとね」
「マジでごめん。カバン取って来っから」
「うん…」
乾の顔はもう教室に入って行けるような状態ではなかった。鼻の頭を真っ赤にして、瞼が腫れていた。
関口は昼休みの教室を足音も高らかに横切り、自分の席に焼きそばパンを叩き付け、乾のカバンやコートを引っ掴んだ。口をへの字にひん曲げて鼻息も荒い。
後藤が気付いて呼びかける。
「あれ?ちょっとー、関口、それカンちゃんの…」
「おうよ」
関口の口調には怒りが混じる。後藤を振り返りもせずに教室を出て行った。
荒牧は宇佐美と話し込むふりをして、関口の背中を確かに見ていた。
午後の二時間は、礼拝堂に二年生を集めて特別礼拝が行われた。校外から講師を呼んでの講義だ。
生徒らはそれぞれ自由に席に着く。ある者は携帯電話に執心し、ある者は参考書を持ち込む。
荒牧は居眠りを決め込もうと、目立たない箇所を探して礼拝堂の端の空席を見つけた。
「シャケ、こっち」
不意に後ろから声がして振り向く。関口は聖書と賛美歌を片手にまとめて持ち、不敵な笑みを浮かべて荒牧に手招きをした。
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