第47話:消える
荒牧と乾が秘密を共有してひと月が過ぎ去っていた。
長袖の季節で良かった。そう頭の中で呟いて、しばしば乾は己の裸身を脱衣所の鏡で眺めた。
荒牧は乾を組み敷いては、首筋や背中や脚、体中のあらゆる箇所に吸い付いて赤い痣を残した。特に二の腕の、皮膚の柔らかい内側の部分は赤く埋め尽くされた。半袖だったら隠し切れない範囲だ。一日置きに抱き合う事ひと月、内出血は治る暇もなかった。
その痕跡は今、消えつつあった。
放課後の教室の外で、宇佐美が乾を待っていた。
「カンちゃん、帰ろう」
「うん。…シャケは?」
教室を見回すと、荒牧は八木という女子の席で数々の書類を中心に頭を突き合わせ、何やら熱心に話し込んでいる様子だった。
「文化祭委員じゃない?先に帰ろうよ」
「そっか…」
宇佐美に促され、乾は教室を後にした。
十一月下旬の文化祭へ向けて、実行委員会が発足していた。
またいつものように荒牧と後藤が担任教師に委員を指名されていたが、後藤は私用で都合が悪く、今回は仲の良い女子の八木に代役を頼んでいた。
特進クラスの文化祭への参加は二年生の今年が最後になる。三年生になると受験対策強化の為に、文化祭の他にも校内の数々のイベント事は免除されるのだ。
特進クラスは早々に駄菓子屋を開く事を決めた。仕入れた物をただ売るだけの出し物だ。二年生でも放課後は塾に通う生徒が多く、やる気の感じられない、いかにも特進らしい個性のない内容だった。
乾が恐れていた通り、文化祭が近付くにつれて荒牧との距離は開いた。一日置きの塾にも、荒牧が顔を出さない日もあった。
ある日の休み時間の事だ。
廊下を歩く途中、乾は前方に荒牧の背中を見つけた。こういった隙でも話しかけるのがためらわれるほど、このところの荒牧は多忙だった。
「ちょっと、荒牧くん!これは?まだでしょ?」
そうやって乾が二の足を踏む間に、荒牧の横に八木が現れた。
八木は長身で短髪、ボーイッシュではつらつとした女子だ。後藤と共に女子のリーダーのような存在で、“八木ちゃん”、“やぎゃん”などと呼ばれて人望も厚い。物の言い方もはきはきとして押しが強く、文化祭の打ち合わせをしながら、たびたび荒牧と渡り合った。
喧嘩腰の八木に荒牧もむくれながら答える。乾の存在に気付かないようだ。
「えー、どれ?」
「もー、全然覚えてないんだから!駄菓子の仕入れ。こっちの問屋の方が安いじゃん」
「知らねえよ。船橋ので良いよ、もう」
「良くはないでしょー?荒牧くん、いい加減過ぎ!」
「八木ちゃんと日暮里まで行くなんて、しんどいにもほどがある」
廊下でも二人は打ち合わせて難しい顔をする。
乾は二人の勢いに、たじたじと廊下を戻った。
乾の背後から、打って変わった笑い声が聞こえた。喧嘩腰ながら、荒牧も八木も気が合っているようだ。
どこからか火の粉が飛んで来て、乾のほつれた気持ちの切れ端に燃え移る。自覚しながら、乾はそれに気付かない振りをした。
二学期の中間テストの結果は、乾の心情を如実に映し出した。
一方、荒牧は変わらず三位だ。乾との出来事も、荒牧にとっては日常なのだろうか。
乾は担任教師やクラスメイトに指摘された事よりも、荒牧に言い咎められた事の方が応えていた。
だって、わかってるでしょ?頭の中、君の事ばかりなんだよ、最近…。
君とこんな風になってから…
乾は、成績が急落した理由を知っているただ一人からは同情を乞いたかったのだ。
欲望に振り回されて本分もままならない我が身に恥じ入りながら、乾は荒牧の冷徹さに指を噛んだ。
昼食前、ベランダから笑い声が聞こえた。荒牧と後藤に八木も加わって賑やかだ。後藤はベランダから教室に入りながら乾に笑いかけた。
「あ、カンちゃん。メシ、赤弁?」
「うん…」
「私、パンにするよ」
後藤を追うように荒牧と八木も教室に戻る。
「後藤、パン?」
「うん」
「俺もパンにしよ。八木ちゃんは?」
「私はいつも赤弁だから」
八木も荒牧に笑顔で答える。委員会を通して、二人はすっかり打ち解けている様子だ。
荒牧は後藤の背後から肩に両手を乗せ、押しながら笑い声を上げて教室を出て行く。
荒牧の機嫌が良さそうであればあるほど、何故か乾は話しかける事が出来ないでいた。
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