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第39話:溺れる

すると荒牧は乾を一瞥し、
「あ、そ」
と、吐き捨てるように言うだけだった。

…え?それだけ?

乾は後悔していた。

勢いとは言え、膣内射精とはまた随分と軽はずみな事をしたものだ。
世の男は避妊具など使わず、そのまま中に出す方が好きだろう、と、以前に女子同士の下世話で聞いた事があったからだった。
当然、荒牧も気にかけているだろうと思っての報告だった。安心した笑顔が、とまでは言わないまでも「良かった」の一言くらいは期待していた。それなのに「だから何だ」とでも言いたげな荒牧に、乾は拍子抜けし、落胆した。

面倒臭いのか無情さを誇張したいのか、荒牧は乾を抱く時、服も脱がない。
いつものように無表情ながらも急いた手付きで押し倒すと、乾の服を全て剥ぎ取る。裸を隠そうとしたなら、その手をつかんで押さえ付ける。愛撫も雑で乱暴。いつも部屋に呼ぶのは乾だから、当然、同意の上だ。しかし荒牧はいつでも、無理強いをしているかのように乾を抱いた。
荒牧は力尽くで乾に頂へと押し上げると、満足そうに口の端に笑みを浮かべる。よく出来ました、と、身を震わせる乾を抱き締めて髪を撫で、ようやくキスをする。

そんな風にして荒牧に抱き締められ、丹念に歯並びや舌や耳を舐められると、乾は「もしかしたらこのまま愛して貰えるのかも知れない」と、幸福に満ち満ちた妄想に浸ってしまう。
しかしそれはほんのわずかな瞬間だけ。学校ではこれまで通り、単なる仲良し小好しの一員であり、相変わらず学習塾の帰りには未来の妻の手を引いて去って行く。


覆い被さった乾を押し退け、荒牧は身支度を続けた。ベッドの縁に座って黙々と脱ぎ散らかした下着やズボンを拾い集める。
「そろそろ帰るわ」
「え、もう…?もっとゆっくりしていけば良いのに…」
「いや、帰るよ」
「まだ誰も帰って来ないよ」
「だらだらいてもしょうがないし」
「…」
乾は言葉も尽き果て、他に引き止める理由もなく、荒牧の背中に頬を擦り付けて寄りかかった。荒牧シャツを整え、ネクタイを締め直す。乾はこれでもかとばかりに、更に荒牧の胸に腕を回してきつく抱いた。
「ほら、懐くなよ。邪魔」
荒牧は乾の腕を引き剥がすと、ベストを着て眼鏡をかけた。

乾は慌てて自分の服を探し始める。
「待って…っ、えと…、駅まで送るよ」
「いいよ。もう道も覚えたし」
「でも…」
「カンちゃん」
荒牧がようやく乾に向き直る。乾はこの期の及んでも光明を見いだそうと荒牧を見つめた。
しかし、乾の希望を摘み取るように、荒牧は乾がまとったタオルケットをむしり取り、乳房を握り締めて弄った。
「やっ…」
「俺、ここにはやりに来てるだけだからさ」
荒牧の手から逃れようと悶える乾へ、言葉で追い討ちをかける。今度は強い口調で、摘み取った微かな希望を切り刻んだ。
「それだけだよ。わかってるでしょ」
「…」
乳房をつかんでいた荒牧の手がようやく離れ、乾はタオルケットを引き寄せて身体を隠した。
涙が押し寄せそうになるのを堪えたが、平静を装う事は出来なかった。乾の顔が悲しみに歪む。

「何でそんな顔すんの」
「…」
「こんな嫌な奴だって思ってなかった?」
乾は怯えながら荒牧を見つめ、耐え切れなくなって目をそらした。声を絞り出して言う。
「…シャケ、怖いよ」
「はは!怖くない、怖くない」
「…」
「「怖い」って、どっちがよ」
「え…」
「あんたの方がよっぽど怖いね」
「…」
「俺は駄目だってわかってるのに…」
「…」
「自分から誘っといてそんな被害者ヅラされてもさ…。意味わかんねえし」
乾は前髪の隙間から荒牧を見る。荒牧は鼻で笑って、更に切り刻もうと畳み掛ける。
「俺を選んで当たりだったね」
「え?」
「やりたくなったらすぐ呼べる」
「…」
「呼んだらほいほいついて来る」
「…」
「あんたにとっても都合良いんでしょ?こういう尻の軽い奴」
「…」
「後から「責任取れ」とか「レイプだ」とか言って来んなよ?」
「そんな事っ…」
「…」
「言わない…」
遂に乾は荒牧の顔を見る事が出来なくなる。想いを滅多切りにしながらそれを心底楽しんでいるかのような荒牧の顔が、乾には堪え難かった。

「…そんなめそめそしないでさ、どうせなら楽しんでよ」
つんと鼻の奥が痛んで乾は喉を詰まらせた。下瞼から溢れ出そうになる涙を、こぼれる寸前にタオルケットで拭き取った。
「何、今度は嘘泣き?こえー女」
荒牧はせせら笑って、うつむいた乾の顔を覗き込む。この男の前では涙が流れても意味がないらしい。乾はうつむいたまま、涙を堪えて必死で首を横に振った。
荒牧はいきなり乾の首を抱き寄せて唇を重ねる。口付けも、今はただの湿った肉の感触だけだ。
「明日からもちゃんと学校来てさ、いつも通りにしてよ」
その声色は優しい。乾は再び荒牧を見つめる。
「俺ともいつも通りに。な?」
この日一番の、まるで子供のような笑顔をして、荒牧は乾の頭をなだめるように撫で、柔らかく髪にキスをした。


こうして塾のない日に乾の自宅で会う日々が続いた。乾の家族が帰って来る寸前まで、時には何度も抱き合うのだった。
居間で行為に及ぶ時の荒牧はいつもよりも更に乱暴で、戸惑う乾を眺める様は、何より楽しげだった。


またラッキーが狂ったように吠えている。

乾は服に袖を通しながら、荒牧が去った一人の部屋で愛犬の咆哮を聞いていた。
荒牧が帰って行く後ろ姿を、乾はいつも二階の自室から見送った。
決して振り向く事なく帰る遠い背中は、これ以上は進展しないであろう二人の縁に似ていた。




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