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第30話:婆さんになっても(後編)

「でも、あれは…。ねえ?」
自ら嬉々として言い出した癖に宇佐美は口ごもる。

旅の夜、親同士が酔っぱらって勝手に子供達をネタに盛り上がり、その中で誰かが言い出した話なのだった。それだけ親も公認の交際である、と言う事だ。
「もうそんな話してんのー?」
依然、声のボリュームが大きい後藤は荒牧をまじまじと見つめた。宇佐美が続ける。
「いや、あいつが十六って二、三年後の話だよ?シャケもまだハタチ前。それはちょっと…」
後藤は溜め息混じりに呟く。
「何か…、良いなあ…」
「荒牧が大人に思えた、今」
便乗してすっかり酔いしれている後藤と関口の傍らで、荒牧は他人事のように笑う。
「いや、何でよ」
「さすがにないでしょ、あれは」
宇佐美も、成人前に入籍ともなると否定的なようだ。
「でもちょっと、そういうの羨ましいかも」
後藤は荒牧を羨望の眼差しで見る。“許嫁”とか“フィアンセ”とか、少女漫画や昼のドラマにでも出て来そうな言葉に憧憬を抱いてしまうのだ、と、後藤は言う。
「ね、カンちゃん」
「ん、…うん」
乾は言葉を詰まらせた。顔には動揺と落胆が見て取れた。それは仲間にも伝わり、場は一瞬、白んだ。それ以上、荒牧の恋人の話題を続けようとする者はいなかった。


そんな周囲の反応に、乾は気付く様子もなく、荒牧の言葉を反芻していた。

婆さんになってもああなんじゃないかって…

既に独自の人生設計があるとは言え、高校生が恋人のずっと先の老人になった時の事を想定するだろうか。
(凄い…。もう彼女と結婚するって決めてるんだ…)
さらりと言いながら荒牧は、無意識下に恋人と添い遂げるつもりでいるのだ。乾はその言葉をそう受け取った。
それでも実際に入籍にまで話が及んでいるとは思いもしなかった。
乾のかすり傷からじわりと血がにじみ出る。
(本当に“生き甲斐”なんだね…)
既に別の話題になっているらしく、荒牧は機嫌良さそうに仲間と戯れて笑う。
(私だったら…)
荒牧の、いつもより髪を短めに切った襟足に薄く浮いた汗が光る。汗で滑るのか眼鏡の位置を何度も直している。仲間をからかう意地悪な物言いは相変わらずだ。
(今、目の前の事しか考えられない…)


教室を移動する廊下で、乾は考えていた。
普段から恋人の自慢は、荒牧自らしていたはずだった。しかし今日は宇佐美の雄弁さに少し困ったような顔をしていた。それも、気を使われての事なのだろうか…
「カンちゃん。俺、超~怒られたよ」
不意に背後で荒牧が言って、乾は現実に引き戻される。
「え?」
「指輪」
「あ…」
「気付かれたんだ」
荒牧が恋人とお揃いで作ったと言う指輪の事だ。乾が抱き着いた勢いで歩道橋から転げ落ち、車に轢かれて壊れてしまった。
学校外ではなるべく指輪を左手の薬指に着けていようという暗黙の了解のようなものがあったそうだ。最近、荒牧が指輪を着けていない事に、恋人が目ざとく気付いた。ぐずる恋人に、荒牧は「紛失した」と嘘をついてその場を取り繕ったのだった。

「そっか…」
落胆する乾を尻目に、荒牧は呑気だ。
「ナイス言い訳、間に合わなかったなあ」
「…ごめんね」
「ふっ、いいよ、もう」
「…」
荒牧が珍しく鼻歌を歌っている。
穏やかな横顔を、乾はじっと見つめた。見つめながら、歩道橋の上で、花火大会で、一瞬だけ感じた荒牧の体温の記憶を手繰る。
本当なら、そんな事を乾が知っていてはいけないはずだ。毎日こんな容易に手の届きそうな隣りにいて、あの体温を忘れる事が出来るのだろうか。
確かに膨らみ続けている恋心を抑える事が、将来を想像するより果てしない事のような気がして、乾の目は眩んだ。




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