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第23話:パピコ

未だ体操着のままの荒牧聡吾は、高校の隣りの病院から教室へ戻ろうとしていた。
病院へ入った時よりも雨量が増している。
傘がない。売店でビニール傘を買う現金も持ち合わせていない。荒牧は困り果て、左目の眼帯の位置を直すと、右の裸眼で空を眺めて舌打ちをする。景色が霞んで自身が頼りない。
荒牧のぼやけた視界、雨で白く煙った道の上に、傘を差し、手にもう一つ傘を持った人影が現れる。人物は紫煙をまとっていた。
「…由貴?」

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荒牧はその人物を下の名前で確認した。
目黒由貴は煙草をくわえたまま、無言で荒牧に傘を差し出した。荒牧は目を細めて目黒の表情を読もうとする。
「由貴、何してんの?」
「聡吾、怪我は?」
「…お前も脳外科の検査でも受けた方が良いかもな」
「あー…、すっげえくらくらした、あれ」
「放っとくと天然こじらすぞ」
「うるせんだよ」
目黒は言いながら傘の飛沫を荒牧に引っかけて笑った。

雨音にかき消されないように、荒牧と目黒は大声で話をしていた。舗装されていない道を歩いてクツは泥にまみれた。
目黒は溜め息をつく。
「もう帰れってよ。停学になった」
「ははは!ざまー」
「お前は?」
「俺、被害者だろ?お咎めなし」
「きったねー!こっすいよな、相変わらず」
「「相変わらず」て何だよ」
「聡吾の得意技だもんな、地味過ぎて怒るに怒れない嫌がらせの数々…」
「ぬふふ…」
「要領良いんだ、お前は。良い子ぶりっこで」
「はは、ユキ、キレんの早過ぎ。あっさり挑発に乗らなんだら良いのに」

荒牧はジャンプボールの際に、目黒の足の上に着地をした。
その後も、ゴール下がごちゃつくと、荒牧はすかさず目黒に接近してラフプレーを施していた。
リバウンドを取りに行くフリをして肘打ち、踵を削り取るように踏む、背中に指先をめり込ませる、体操着のズボンをゆっくりと引き下げるなど。目黒が荒牧をにらむと、荒牧はニヤけて舌を出した。
積み重ねられていた荒牧の、ラフプレーと言うにはほど遠い嫌がらせはあまりに地味過ぎて、周囲は誰も気付いていなかった。教師にも生徒らにも目黒が後頭部へのパス一発でキレたように映ったのだった。

目黒は荒牧を見つめ、傘に傘をぶつけながら訊いた。
「マジでもうやんないの?」
「ん?」
「バスケ」
「うん。もうやんない」
「まだ全然、動けるじゃん」
「体育の授業程度だろ」
「聡吾も宗緒も、センス変わってない」
目黒は、同様に幼馴染みである宇佐美宗緒も巻き込もうと、荒牧に誘い水を向ける。
「もうやりたくねえの?」
「うーん…」
「やりたいだろ?」
「いや、まあ…」
言い淀む荒牧を、目黒は更に追い込む。
「聡吾、楽しそうな顔してた」
「…」
「な?ウィンターカップなら余裕で間に合うだろ」
「…」
荒牧は黙って泥だらけの自分のクツを見ていた。目黒は色好い返事を待って幼馴染みの横顔を見つめた。
「…ボールってあんなに重かったっけか」
荒牧は右肩を回しながら目黒を見て笑い、続ける。
「もう冷めたんだ」
「…」
「冷まされた。状況に」
雨がビニール傘に降る音にかき消されそうなほど、荒牧の声は弱々しく小さい。目黒は引き下がらない。
「聡吾と宗緒がいたらウチも…」
「宗緒もとっくに情熱冷めたみたいだし。あんな女投げのチビがいてもしょうがないだろ」
「そうだけど…。俺、お前が“一番”やってくんないと、やる気起きない」
荒牧のポジションは一番・ポイントガード。試合の流れを把握してチームメイトの動きを読み、パスを出す司令塔だ。宇佐美が“女投げのスリーポイント職人”ならば、荒牧はそれをお膳立てする“パス出し職人”だった。

荒牧は見えない遠くを眺めて言う。
「いつの話だ。俺はもうホント、練習とか試合とか無理だから」
「…そんな悪いのか?」
「そうでもないけど、しんどい時はマジでしんどいし」
「…」
旧知の共通言語で話しながら、目黒は荒牧を哀れそうな目で見た。荒牧は口元の傷を気にしつつ、いつもの意地悪そうな顔で笑った。
「それに俺、もうガリ勉ちゃんですから」
「…勿体ねえな」
「ユキがサボってる方がよっぽど勿体ねえんだよ」
「…」
「お前、何でスルーしちゃってんの、インハイ予選」
「…」
「つか、レギュラーにすらなれてねえんだろ?」
「…」
「やる気ねえの、俺のせいにすんなよ」
荒牧は、目黒の煙草を取り上げて、ちょうど通りかかったバス停の吸い殻入れに捨てた。目黒は荒牧を睨んで言う。
「…俺の前でまで良い子ぶりっこかよ」
「あのな、乾に付きまとってる暇なんかあったら練習しろ」
「…」
「だいぶ困ってるぞ」
「乾、どうやって手懐けた?聡吾の事だから即行やったよな?」
「アホか」
「…」
「「手懐けた」とかな、犬猫みたいに言うな」
「…」
「お前らストーキング部が張り付いてるから、一緒に帰ってるだけだろうが」
「…」
荒牧の嘲笑に、目黒は黙るしかなかった。

目黒は、本当はとうに乾の事など諦めていた。最初から困らせるつもりなどなかった。
「好き」になって欲しいなんておこがましい願いも既に消え失せた。「嫌い」から「普通」、せめて「どうでもいい」くらいまでは挽回したかった。
一年生の頃の事だ。乾は目黒との交際を断って以降、申し訳なさそうな顔をするようになり、もうそれまでのように話してはくれなくなった。
ただ前みたいに笑って欲しいだけだっつうの。乾、俺の寒いギャグであんなに笑ってたじゃんよ…。
目黒の必死の悪い冗談に、乾の顔は困惑から嫌悪に変わった。おせっかいなバスケ部の連中がどこからか「ヤリマンらしい」と言う噂を手に入れて火に油を注いだ。
幼馴染みには昔から“天然”と笑われていた。自分が口下手で早とちりで、すぐ空回りする事くらいは自覚があった。
その幼馴染みの野郎が目の前で乾をかっさらって行った。そう思い込んで悪あがきをこじらせ、乾との縁は膿んで壊死した。切り離す以外、もうどうする事も出来なくなっていた。

雨脚は弱まり始める。
「…てか俺、今は“なぎ”だから」
荒牧がにやりとして恋人の名を吐露すると、目黒は大袈裟に反応した。
「なぎと!?マジで言ってんの?」
「おう」
「出たー、やっと本命登場か。聡吾も遂に年貢の収め時…」
「ははっ…。なぎも“よっきゅん”の事、心配してる」
「よっきゅんて!母ちゃんももうそんな呼び方しねえし」
「あいつ、「よっきゅん、怖い人になっちゃった」って怯えてな。近所でお前を見たら必死で隠れるってよ」
「…今、ちょっと傷付いた…」
「ははは!…たまには一緒に宗緒んちでカレー食おうぜ」
「ふっ…」
「俺ら、パピコ分け合った仲じゃないすかー」
「パピコ!…コーヒー味な」
「うん」
「そうか…、なぎと…」
「うん」
「…このロリコン野郎が」
「ロリコン違うわ!」

二人は校門まで歩いて、目黒はそのまま国道のバス停の方へ向かった。荒牧は霞む視界で、目黒の背中をしばらく見送った。




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