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第17話:生き甲斐(後編)

「…幸せ?」
突然の乾の問いに、荒牧は思わず聞き返した。

「え?」
「幸せなんだね、今」
「はは、何だそりゃ」
「…」
「…ふっ」
しばらく二人は顔を見合わせていたが、荒牧は不意に目をそらすとうなずいた。
「…うん。そうだね…」
「…」
「今、一番幸せかもしんない」
荒牧は自嘲しているように吹き出してうつむく。今度は真顔になって続けた。
「ちょっと大袈裟な言い方だけどさ」
「…」
「これからは、あの子が俺の生き甲斐になっていくんだと思う」
夕日が眩しいのか、未来が眩しいのか、荒牧は目を細めてしかめっ面をしていた。乾はその顔を見ている事が出来なくなる。血液がまた逆流するのを感じていた。もはや荒牧に訊く事はなくなった。

乾は眺めていた指輪を返そうと、そっと手を差し出した。荒牧も手の平で受け取ろうとして言う。
「…みんなには内緒な。こんな恥ずかしい事…」
言い終わらない内に、乾は荒牧の胸に顔を埋めた。
荒牧は何が起きたかわからないままだったが、甘い香りが漂った事だけはわかった。
二人の手の隙間から指輪がこぼれる。
「あっ…」
どちらからともなく、声を上げた。指輪は歩道橋の手すりに跳ね返り、金属の音を立てると、下の国道に転がり落ちた。

歩道橋の下は、上下合わせて四車線の国道だ。轟々と大型トラックやダンプカーが頻繁に通り、歩道橋も震えた。
上から覗くと小さな輪が輝いた。その光をタイヤの黒が何度も塗りつぶしていく。
荒牧は焦って、登って来た階段を降りようと踵を返した。
「シャケ、危ないよ!」
乾が荒牧の腕をつかむと、荒牧は脊髄でその腕を振り払い、今まで聞いた事もないような声で怒鳴った。
「何で!?」
「え…」
「今、わざと…!」
「ちが…、わざとじゃ…」
排気ガスの中、二人は黙った。遠くで光化学スモッグ注意報が解除されたとの知らせが鳴っている。荒牧も乾も、既に指輪の無事の生還を諦めていた。
責められて乾は唇を噛んだ。やおら荒牧の両腕をつかんで歩道橋の手すりに押さえ付けると、静かに、しかし強い力で頭を荒牧の胸に預けた。乾の額に荒牧の鎖骨が当たっていた。

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「ちょ…」
荒牧が乾の肩を押し返して抗うと、今度は背伸びをして荒牧の首をかき抱く。汗ばんだ頬と頬が触れ合い、圧迫された胸にはお互いの鼓動がこだまして、首の血管も波打った。
甘い香りは濃度を上げて漂い、風に吹き流された。荒牧は呆然としながら乾の香りに身を任せ、ほんの数秒、されるがままにした。
歩道橋が揺れて我に返った荒牧は、乾の肩をつかんでそっと引き剥がす。二人の身体はようやく離れた。
「乾…?」
乾はうつむいたまま黙っている。荒牧が顔を覗き込もうとすると、突然駆け出した。
「おい!乾!」
ちょうど駅へ向かうバスが到着する。閉まりかけたドアは再び開いて、乾は荒牧を置いてバスの中へと消えた。
「おい!」
荒牧は歩道橋の上から叫んだが、全て騒音にかき消された。

しばらく呆然とバスを見送って、荒牧はとぼとぼと歩道橋を降りた。交通量が途切れた隙を見計らって、国道の上に出る。
何台もの車にクラクションを鳴らされながら地面を舐めるように探すと、ゴミに混じって金属が鈍く光った。既に輪をなしていない銀の塊りだったが、イニシャルの刻印がわずかに見えていて指輪だと判別した。
歩道に戻り、歩道橋の階段に腰掛ける。原型をとどめていない指輪を握りしめ、荒牧は何やら独り言を呻いた。

17_stairs


路線バスはスピードを上げ、国道を駅へと走る。

…何してんの、私。訳わかんない。何であんな事…。
指輪、どうなっちゃったかな…、どうしよう、謝らなくちゃ…
二人のイニシャル、SとNなんだ…。何か、磁石みたいだね。
そっか、だからくっついてんだ。磁石みたいに自然と惹かれ合って…
Nちゃんって、何ていうんだろう…。
なおこ?なつみ?なな?のぞみ?のりこ?
…あ、のりこはごっちゃんの名前だった。
ああ、今そんな事を考えてる場合じゃない。
謝らなくちゃいけないのに、逃げちゃった…。
次のバス停で降りて戻って…、そうだ、今すぐメール…、
…じゃなくて、ちゃんと喋らないと…。ちゃんと「ごめん」って…
とにかく電話を…
…あ、シャケ、今日も携帯忘れたって言ってた…。
明日からどうしたら良いんだろう。どんな顔して会ったら……

いきなり抱き着く、という自分の行為に混乱しながら、荒牧の頬の感触を辿ろうと、乾は自分の頬を撫でた。荒牧の身体は熱く、発熱をしているかのようだった。
ふと我に返り、バスの窓に目をやると、そこには口元に笑みが浮かんだ自分が映っていた。そのニヤけ顔に驚愕し、乾はうつむく。
指輪の事を申し訳ないという気持ちでいなくてはいけないこの際に、乾は荒牧に触れる事が出来た幸福感に浸っていたのだった。

後藤や関口に「荒牧のどこが良いのか」なんて勘繰られても、彼女の事を持ち出して話を変えた。ごまかしだった。予感はずっとしていたけど、制御もずっと前から出来たはずだ。

慌てて隠した紐には恋人とお揃いの指輪。いつでも身に着けていたくてわざわざ紐に通して首にかけている。
今、とても幸せ。彼女は生き甲斐。
わかりきった事を確認する為には十分過ぎた。

あんなにも心臓が脈打った。もう認めずにはいられない。やっぱり好きになってしまったのだ。

国道をひた走るバスの中、乾はなす術もなく、ただ泣いた。



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