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第2話:ふたり

荒牧は週に二回、放課後は途中下車して津田沼の学習塾に行く。
適当な席に着くと、授業が始まる前に菓子パンをかじりながらも、予習・復習に余念がない。

こうしていつものように参考書を開こうとしていると、背後で声がした。

「乾さーん。いますかー?」
(ん?)
荒牧はとっさに振り向く。覚えのある名字だ。今日の今日、聞き覚えたばかりの名字。
(乾?)
「はい」
同時に誰かがか細い声で答えるのが聞こえた。
荒牧は返事の主を目で追う。
教室の出入り口、呼びかけた学習塾の事務員の元へと少女が駆け寄る。
少女はグレーのブレザーを着ていた。村上学院高校の制服だ。明るく色を抜いた髪は肩よりも少しばかり長く、校則よりも短くしたプリーツのスカートからは白く細い腿が真っ直ぐに伸びていた。
美少女だ。後ろ姿は。
荒牧は、少女が事務員から冊子を渡されるなど、学習塾の説明を受けているであろう始終を眺めながらそう思っていた。

少女が元いた最後列の席に戻ると、荒牧はその隣りに移動する。
「あの…」
及び腰に声をかけると、少女はカバンに書類をしまう手を止め、顔を上げた。
荒牧は一瞬だけ少女に見入ったが、辛うじて言葉を続けた。
「あのー、乾さん?村上の二年の特進の…」
「あ…、はい…」
怪訝そうに荒牧を見て、乾梓は答える。荒牧は更に続ける。
「今日、始業式だったのに。休んだでしょ?」
「…」
乾は黙って、自分と同じ高校の制服を着た眼鏡の少年を見ている。
「俺も特進なんだ」
乾は微かに表情を変える。授業の時間を迎えた教室の前方では、既に講師が準備を始めている。
「制服着てんじゃん。何で?」
「…」
「サボり?」
問い続ける荒牧に、乾はようやく答える。それはもう、授業が始まろうとする直前の教室の中では、同い年の生徒らがはしゃぐ話し声に阻まれて、聞き取るのが精一杯のか細い声で。
「…ちょっと具合悪くて」
講師が授業を初めて、荒牧は少しだけ音量を下げた声で言う。
「あ、そう…。卒業まで一緒だから。よろしく」
荒牧は屈託なく、乾に握手を求める。
乾は戸惑っている様子で、指の先に触れる程度で荒牧の握手に答える。

荒牧はついさっきまで一緒にいた後藤の言葉を思い出していた。
可愛いよ。美人。
その通りだった。伏した瞼には、視線がどこを向いているかわからないほどの豊かな睫毛が生い茂り、今にも何かを言い出しそうな唇は艶めいて、印象に残るのは白い肌と細い四肢。
荒牧は後藤の証言を確かめるように、乾を凝視する。
(マジ可愛いな…)
荒牧は感情がまるでないかのような無表情で頬杖をつき、眼鏡の位置を直し、しかし高圧的とも取れるその態度の裏では、ただ乾の美貌にただ見蕩れているだけであった。
そんな荒牧を、乾は不思議そうに見つめ返した。人見知りを隠さないながらも、真っ直ぐな視線に荒牧は我に返る。
「あ、俺、荒牧っていうの。出席番号一番同士」
「あ…、そう…ですか…」
教室の最後列で講師の目を盗みながら、授業中も二人は少しずつだが話を続けた。
荒牧が口の端で笑う癖と共に、何やら下らない冗談を放つと、乾にも徐々に笑顔がこぼれた。


午後八時前、津田沼駅へと向かう高校生や浪人生の波で溢れる中、乾はさっきまで話をしていた少年を見つけた。
今日初めて会って、後ろ姿だけでそれとわかるほど親しくなった訳ではないが、寝癖をそのままにした髪と、時折見える眼鏡のフレームで、乾はその背中を荒牧だと判別した。
急いだ様子はなく、むしろゆっくりとした歩調。

───学習塾の授業後の教室、荒牧はペンケースを取り落とすなど、何やら慌てた様子で帰り支度をしながら、乾に笑いかけた。
「乾さん、明日は来てよ」
「う、うん」
「何、嫌なの?」
「行くよ、行きます」
まだ戸惑いが消えない様子で答える乾に、荒牧は手を振りながら駆け出した。
「じゃ、明日ね」

帰り際、あんなに急いでいたのに随分と悠長に歩いているではないか、と、乾は荒牧の背中を眺めていた。
よく見ると荒牧が隣りに誰かがいるように話をしている。しかし、乾の視界にはその相手が映らない。
独り言?え、あんな楽し気に独り言?まさかね…。
見え隠れするあまりに無邪気な荒牧の横顔が、乾にそう思わせた。それと同時に、津田沼駅の改札へ続く階段を荒牧が登り始める。
乾はようやく荒牧の横に少女がいる事に気付く。人の波に埋もれ、その時まで少女の姿は見えなかったのだった。
白くて大きな襟のセーラー服は、この辺りの路線でよく見かける大学付属中高の物の様だ。荒牧の肩にも満たない背丈のその少女は、学校指定と思われる分厚いカバンの他にも大きな布製のバッグを抱えている。髪は小さな頭蓋骨にきつく撫で付けられ、後頭部の高い位置で丸くまとめられている。
そのお団子の頭は、荒牧の横をふわふわと軽やかに、浮かんでいるように揺れていた。
やがて荒牧と少女は津田沼駅の改札前を通り抜けて、学習塾とは反対側にある私鉄の方向へ去って行った。
荒牧が急いで帰って行った理由を知って、乾は一人こっそりと微笑んだ。
妹かな。二人の姿に、乾の頬は緩んだ。

改札へ入る前、乾は何の気なしに二人を振り返った。
それはちょうど荒牧が少女に手を差し伸べ、少女がその手をそっとつないだ瞬間だった。
乾は今度は吹き出して笑った。高校二年生の男子が妹と手はつながないだろう。
彼女とお手々つないで帰るんだ。メガネくん、可愛いとこあるじゃない。

2_hands

二人の仲睦まじい様を、微笑ましいと思った記憶は、後になって数えると稀になってしまうのだった。
この時は本当にそうだった。まだ素直に微笑ましいと、乾は思っていたのだ。




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