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第5話:森のクマさん

新学年の雑然とした空気も落ち着き、新しいクラスメイトの名前も徐々に耳に馴染んだ頃。
学校の周辺も梨畑の新緑に包まれた。
特別進学クラスの見晴らしの良い窓から延々と続く緑を一望すると、世界は梨畑だけで出来ているかのように思えた。

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休み時間になると、乾梓は姿を消す。

どこへ行くと言う訳ではない。ただ教室にいる、という事がないだけだ。
乾がどこで食事をしているのか、誰と仲が良いのか、そもそも何を考えているか。知る者は未だ特進にはいない。

乾とは出席番号一番同士、同じ学習塾で同じカリキュラムを取る荒牧聡吾もまた、彼女の心理を知らない。
話しかければ笑顔で答える。冗談が通じないようなタイプではない。荒牧が自身の話をすれば、乾も答えるように自分について語る。
だから彼女の趣味はお菓子作りとピアノ演奏、家は後藤と同じ船橋競馬場駅の近く、両親と姉の四人家族、犬を飼っていると言う事を、荒牧は知っている。
そして乾も、荒牧と宇佐美は幼馴染みで一人っ子同士、生まれた頃からいつも側にいて兄弟のように育ったという事、塾から一緒に帰っているのは付き合い始めて二ヶ月経った恋人だという事を知っている。
しかし、ただそれだけだ。
そして乾がそんな話をするのは塾でだけだった。塾でだけ心を開いているかのように、平凡な十六才の女の子の顔を見せる。
荒牧はその学校と塾での違いを、敢えて乾には問わない。問うだけの立場にいないからだ。荒牧はいつものようにあくびをする。


荒牧が下校をしようと廊下を一人で歩いていると、前方に乾の後ろ姿を見つけた。
明るい髪の色と細い大腿部、学校指定の黒いハイソックスに包まれたふくらはぎもまた細く、荒牧はそれが乾と気付いた。
今日はちょうど学習塾の授業がある日だ。出された課題、乾さんはちゃんとやって来たかな。見せて貰おう。
などと荒牧が思っていると、乾の前に数人の男子が現れた。
それは話しかける、という雰囲気とは違う。行く手を阻む、という体で乾を取り囲んだ。

「乾、勉強した甲斐があったな」
普通科でバスケ部に所属している男子生徒・目黒は、乾の肩を馴れ馴れしく抱く。
他の男子らもバスケ部の連中だ。誰かが続けて言う。
「目黒がバカで良かった良かった」
「うっせ!」
目黒が怒鳴ると、乾は怯えて肩をすくめた。乾を含めた四、五人の塊はそのまま昇降口へとなだれ込む。
荒牧はその集団を追って、下駄箱を挟んだ反対側で聞き耳を立てた。
荒牧の耳に目黒の声が聞こえて来た。
「別にクラス離れても大した意味ないけど」
乾は目黒の手を振り払う。
「毎日どこでだって会おうと思えばなあ?」
目黒の取り巻きだとか手下だとか舎弟といった立場が似合う男子が言うと、
「しつこい」
黙っていた乾が吐き捨てるように言った。いつも通り小さく、しかし下駄箱を挟んだ場所にいる荒牧の耳にも届く強い声だった。
取り巻きの男子らははやし立てた。
「え?何て?」
「全然聞こえねー」
目黒は乾を下駄箱へ追いやると、顔を近付けて言った。
「お前、メアド変えただろ?教えろよ」
目黒の「お前」という乾の呼び方は、過去のそれなりの関係を匂わせた。それが邪推であっても、それを聞いた者がそうせざるを得ない。目黒はそんな口調だった。
「冷てーなー」
「いい加減、目黒にもやらせてやれって」
畳み掛けるような男子らの言葉に、目黒は侮辱の上乗せをする。
「お前な、そこまで勿体振るほどじゃねえぞ?」

「お、乾さーん。いたいた」
一団は現れた男子に注視した。
乾も彼を見た。荒牧はいつものように怠そうな動きで集団に近付くと、そこには乾しかいないかのように言う。
「ヤブが探してた。呼ばれてたでしょ?」
「えっ…?」
“ヤブ”とは特進の担任教師の薮崎の事だった。特進のクラスメイトの特有の呼び方をした為か、群がった男子らは顔を見合わせた。
そして乾も戸惑って、荒牧と目黒の二人の顔を交互に見た。薮崎に呼び出されていたという事に、覚えがなかったからだ。
「ほら、行かないとマズいよ」
荒牧は半ば強引に乾の腕をつかむと昇降口から職員室のある二階へと行こうと引っ張る。
二人の後方からは目黒の怒鳴り声がした。
「おい」
その声に振り向いたのは乾だけ。荒牧は目黒の存在自体を無視してるかのようだった。

二階にある職員室へ続く階段で、荒牧は乾に振り向かず言う。
「二階から回って礼拝堂の渡り廊下の下においで」
「え?」
「クツ、持って来るから。待ってて」
たったそれだけ言うと荒牧は再び昇降口の方向へ戻って行った。

昇降口にはまだバスケ部の集団がたむろしている。やはり荒牧は彼ら存在を無視しているかのように、彼らを掻き分けて自分の下駄箱へ突き進む。
誰かが荒牧の脚を蹴り上げる。転びかけたが、すんでのところで下駄箱に手をついて持ちこたえた。
「おい、ガリ勉」
「…」
荒牧は何も言わずに、脚を蹴り上げた犯人・目黒を真っ直ぐに見据えた。荒牧も長身の部類ではあるが、バスケ部の目黒は荒牧の背よりも目に見えて高かった。
眼光は鋭いまま、しかし口の端には笑いとも取れる歪みを覗かせて目黒は荒牧に言い放った。
「良い子ぶりっこ」
「うるせえよ」
荒牧も同じような表情で目黒に返した。

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そんな二人の間に、取り巻きのひと際背丈の低い男子が割って入る。
「あ?「うるせえ」だと?」
その男子は荒牧の事を見上げ、今にも飛びかからんばかりに息巻いた。荒牧は無表情のまま、その男子を見下ろしてソフトタッチに頭を撫で回す。
「毎日、牛乳飲んだら良いよ」
「何ぃ!?」
荒牧は鼻で笑ってそのチビ男子を無視し、今度は目黒の額に向かって指を弾いた。目黒は荒牧のデコピンをかわすと今度は明らかに笑った。取り巻きの男子達は目黒の反応を不思議そうに見る。やはり笑っているようだ。
荒牧は自分のクツを履くと、素早く乾のクツをカバンにしまった。
集団は口々に文句を言いながら昇降口を去ったが、一人、目黒だけが、その荒牧の行動を見ていた。

礼拝堂の渡り廊下の下では、乾が所在なげにたたずんでいる。
名前を呼ばれて乾が振り向くと、昇降口の方向から荒牧がやって来た。
「ほい、“森のクマさん”状態」
お嬢さんお逃げなさい、と荒牧は、カバンから乾のクツを取り出し、履き易いように置いた。そんなところにクツを入れて、と、乾は笑う。
「…ごめんね、ありがとう。でも…」
乾は荒牧を申し訳なさそうに見上げ、何かを言いかける。しばらくためらうと消え入りそうな声で言った。
「…あんまり私と関わると良い事ないよ」
「何で?」
「変な事、言われると思う」
「“変な事”って?」
「…」
乾はうつむくと黙ったまま何も答えない。
荒牧は後藤が言った“ヤリマン”、“性病持ち”という単語を思い出していた。表情を変えずに言う。
「言いたい奴には言わせておけば?」
「…」
「気にしなんだら良い」
荒牧は、さも訳も無い事かのように言う。
「でも…」
納得がいかないのか、乾は何かを言いかけるが、荒牧に遮られた。
「バス来てるよ。今日、塾は?」
「うん、行くよ。…本当、ありがとね」
小走りに駆け出す乾の後ろ姿を、荒牧は眺めた。




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