第4話:醜聞
礼拝堂から微かに賛美歌が聞こえて来る。
遅刻して誰もいない教室に着いた荒牧は、“あめつちにまさる”を遠くに聞きながら、窓際の最前列の自分の席に深く腰をかけ、眼鏡を外して机に突っ伏した。
教会では日曜の朝に礼拝が行われるが、この村上学院高校ではその代わりにと月曜日の一時間目は丸々、礼拝に費やされる。全校生徒が集まり、宗教科の教員による講義、聖書の朗読、賛美歌の斉唱などをする。
しかし、キリスト教という観点でこの高校を選んだ生徒は少ないと思われ、その証拠に多くの者が居眠りをしている。
生徒も教員も出払った静かな校舎に足音がこだました。
下駄箱に駆け込んだ乾は腕時計を見やり、礼拝への参加を諦めて足取りを緩める。
初めて入る二年生になった自分の教室。乾の足取りは更に重くなる。
ドアから教室を覗くと、前方には既に誰かが礼拝をサボって居眠りを決め込んでいる。誰もいないと思っていた乾は教室に入るのをためらった。
しかしすぐに、その席を男子の出席番号一番の席だと理解した。その人物の後頭部から束になった髪が寝癖になって飛び出ていたからだ。
果たして見覚えのある眼鏡が机に置いてある。
「…荒牧くん、おはよ」
か細い声。
荒牧の顔を覗き込んだ乾の影で、荒牧は目を覚ました。眼鏡をかけて伸びをする。
「…あ。おお、乾さん、来たかー」
「礼拝、行かないの?」
「ちょっと遅刻して。どうせ寝てるしさ。…結局、先週は一度も来なかったじゃないすか」
「うん、へへ…」
乾はぎこちなく笑った。茶色い髪が陽に透けてきらめいていた。
静かなはずの教室から、男子生徒と女子生徒の笑い声が聞こえて来て、教師は足を止めた。
勢い良く二年の特進の教室の引き戸が開かれる。
「おー、お前ら何やってる。良い度胸してるな。礼拝の時間だろうが!」
「礼拝の時間も単位の内なのよ」
職員室の端で特進の担任・薮崎は小声で、しかし怒りしか感じられない口調で荒牧と乾を諭す。
荒牧はあくび混じりに、ふぁーい、と、曖昧な発音で返事をする。
「荒牧!ちゃんとして。ネクタイもしっかり締めて。だらしない」
「はいはーい」
「校章バッヂもないなら買いなさい」
「えー、ヤダ」
「もうね、普通科と違うんだから、あんたら気を引き締めてちょうだい」
「すーいませーん」
徹底的に荒牧がふざける一方、乾はただ黙っている。
「乾さん、休みがちだと心証悪いよ」
「…はい」
「髪も頭髪検査までに黒く戻して。内申に響く。推薦枠やらないよ?」
「…はい」
荒牧は職員室から教室に戻る廊下を、上履きを引きずるような緩慢な動きで歩いて行く。その後ろにはうつむいた乾が続く。
「おーこらーれたー。あーあ、しんどい」
「…」
ネクタイを緩めたり、伸びをしたり、呑気なフリをしながら荒牧は乾の様子を観察する。
怒っているのか落ち込んでいるか、先週会ったばかりの少女の仏頂面を、どう解釈して良いかわからない。
教室に戻ると乾は間髪入れず自分のカバンを持って教室を出て行った。
「あれ、乾さん?」
「…」
荒牧の声に乾は何も答えない。
乾の姿を初めて見た特進の生徒らも、ようやくその様子に気付いて彼女の背中に視線を集中させ、そこここで不穏に囁く。
後藤は、それ見た事かと自慢げに言い放つ。
「…ほら、な?」
関口はニヤニヤとせせら笑って
「うーん、アウトロー」
と、茶化し、
宇佐美は
「うわー、今のはカンジ悪いかも」
と、後藤に追随した。後藤は更に追い込む。
「何しに来てんだよ」
「…」
さすがに荒牧は言葉もない。
二時間目の後は二十分間の長めの休み時間。
校門に臨む特進の教室のベランダで、後藤は乾の話を荒牧に言って聞かせた。
「中学の時は“ヤリマン”とか“性病持ち”とか言われてた」
「うわ、キッツい事言うな、お前」
「私はそういう事は言わないよ。一部の奴らがね」
「へー。せっかくの美人が気の毒に」
「大学生と付き合ってるとか噂があってさ。可愛いからやっぱモテるし、妬みもあっただろうけど」
「…」
「中学の時もちょっと登校拒否っぽくなってて」
「…」
「でもさあ、そもそも態度が悪いよ。いっつもあんななんだよ」
「ある事ない事、言われてたらああにもなるんじゃん?」
「…」
ベランダの窓の近くを関口が通りかかる。
「あ、ねー、関口くーん」
後藤の呼びかけに、人懐っこい笑顔で関口が窓から顔を出す。
「乾がイジメられてるって、どんな?」
「んー、又聞きだけど、バスケ部がどうのこうの」
「ああ、バスケ部か」
バスケ部、という関口の発言に後藤も納得をした。
校内でも素行の悪い生徒が集まるとされるのが男子バスケ部だ。女子を使って大学生相手に美人局をやってるとか、大麻の売買をしてるとか、ロクな噂を聞かない。年に何人か退学者が出るが、バスケ部員もままいる。
その時、後藤も関口も気付かなかったが、荒牧は無言ながら、片方の眉の端をぴくりと動かし、反応を示していた。
関口は続ける。
「何だっけ?黒…、黒田とかいう…」
「…目黒?」
荒牧の補足に、関口がうなずく。
「あー、それそれ。目黒とかいう奴がいて、何とかかんとか」
後藤も呆れた様子で言う。
「バスケ部、タチ悪いからな。停学とかしょっちゅうでしょ」
その後も乾は、登校したり欠席したり、遅刻したり早退したりを繰り返す。
もうすぐ五月になろうという季節の中、教室では確実に浮いている存在になっていた。
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